心について正しく理解し活用できるサイト

男と女の役割についての正しい理解

心の理解と活用

人類が受け継いできたもの

大昔に遡って、人間の生活の変遷について考えてみたいと思います。

タイムマシンに乗ったイメージで、人類の起源までさかのぼってみましょう。

約3万年前です。

人類の祖先と言われるホモ・サピエンス。男は食料を得るために狩猟に出かけ、女は子どもを守りながら家事をこなしています。

男は、生きるために命がけで戦います。

そして、獲物を取りつくすと、移動を始めました。

新たな狩場を見つけ、再び狩猟生活を繰り返します。

次に、約二千年前に進みます。

知恵をつけた人類は、農耕して自ら生産することを覚え、食料を確保するための家畜を飼育して、その場に定住しています。

それぞれが役割を持って仕事をしているようです。

男の仕事と女の仕事が、はっきりと分けられています。

そして、近代の百年前に進みます。

大正初期でしょうか。東京の街には、電車や車が走っています。貨幣経済が発達し、銀行や商業のビルが建っています。

街には、街灯があり、川を渡る陸橋ができ、通りには人々が行き来しています。

現代に戻ってきました。

教育機会の均等が保障され、誰もが学べる社会になり、働く場が多様化したことで、年齢・性別に関わらず仕事につき、十分な収入を得ています。

人々は、不自由なく暮らしているように見えます。

これまで、各家庭単位で行ってきた炊事・家事・洗濯さえも、社会の仕組みの中で行われるようになりました。

長い人類の歴史を考えると、急速に社会構造が多様化、広域化、複雑化しているのが、わかります。

家族や地域社会という小さな枠組みを超えて、今や社会や世界というの枠組みの中でそれぞれが関わり合って生きる世の中になったのです。

しかし、ここではっきりとわかる事実があります。

例えば、経済社会が急速に発展したこの100年間を3万年の人類の起源からの期間と比較すると、1対300というレシオになります。

つまり、近代の100年間は、全体の0.3%でしかありません。

人間の寿命が80歳だと仮定すると、79.7歳までが、農耕を中心とした共同生活、一人で生活することがきわめて難しい社会の中で過ごしてきたことになります。

人類の起源から、家族や村社会という枠組みの中で、お互いが役割を分担しながら支え合って生活をし続けてきた気の遠くなるような時間の長さに驚きを持たざるを得ません。

このことから、狩猟時代から受け継いできた人類のもつDNAが、人の体には潜在的に備わっているものだと確信できます。

それは、男は外に出て狩猟をし、命がけで戦い、女は子を産み育てるという明確な役割であり、両性の特性を生かした生活の基本構造にあります。

現代社会における女性の辛さ

今の世の中、女も男と同様に働く社会になりました。

でも、どんな女性でも人を好きになることは当然のことであり、将来的に仕事か結婚かと悩みます。

私は、女性の多い職場に長く勤めていたため、家庭を持った女性が仕事を続けていくことの大変さがよくわかります。

なぜなら、結婚を考えたときに必ず女性だけについて回ることがあるからです。

結婚すれば、子どもを授かります。

仕事で忙しければ、家事がおろそかになるのが目に見えています。

子どもが風邪を引けば、病院に連れていくために会社を遅刻したり、早退したりするのは女性の役目になります。

家を出て、性を変え、配偶者の親戚付き合いをしなければなりません。

職場でも、社会でも、当然のように男性同様に仕事をすることを要求されます。

つまり、女性にとって結婚というものは、生活そのものを大きく変えることを余儀なくされることを意味するのです。

男女雇用機会均等、男女平等、職業の上では男と女は同じものであるという目指すべき社会の流れは、正しいのかもしれません。

でも、そこに何か、足りないものがあるような気がするのです。

子を産み育てることの大切さ

女が外で働き、生きがいをそこに得ることは、幸せの一つの形でもあります。

しかし、女が本来持っている性についての特性は、子を産み育てることです。

つまり、人類がこれまで当たり前のようにし続けてきたこと。

これを、社会で何とか支えようと、政府も改革の中心に据えています。

そのためには、一人の子を育て上げることが、人間の未来にとっていかに大切なことであるかという認識を国民の誰もが持つ必要があります。

子どもを産み、育てることができる唯一の存在が女性です。

そして、例え仕事を続けていようとも、女性が女性としての性を全うできることで人類は存続していくことができます。

だから、それを守っていく社会の仕組みがどうしても必要だと思うのです。

もちろん、女は子どもを産まなければならないと主張するわけでもなく、望んでもかなわない人もいますし、子を産まない人生があってもいいと思います。

でも、地球上の人間の大勢がそうなったときに、人類の存続の危機が訪れることは明らかなことです。

女性が大事にされる社会

これは、ドイツ滞在時代によく見た光景です。

Uバーンという地上を走る路面電車に乗る時には、3段のステップを上がらなければならないのですが、 ベビーカーを押して歩く女性が乗車すると、近くにいる若者が数人集まって率先して手を貸していました。

大きなスーパーマーケットの立体駐車場の各階のエントランス付近 は、ほとんどが女性専用の駐車場として確保されていました 。

デパートのドアの入り口では、荷物を両手に抱えている見ず知らずの女性のためにドアを開けて持っていてあげる男性をよく見かけました。

お店に入るときに、ドアを開けて女性を先に通してから後から続いて入る男性の姿をよく見ました。

席に座る時には、女性を必ず奥の壁側の椅子に座らせてから、通路側の席に座る男性。

レストランで女性が席を立つと同時に席を立つ男性。

ハグしながら、頬と頬を左・右の順にくっつけ合う男女同士の挨拶。

女性が大切にされるという社会基盤の中で、男性が率先して行動に移し、女性がそれらを受け取ることで一層美しく輝いているように見えました。

そこには、男は女を大切にすることで愛を表現し、女は男から大切にされることで愛を感じるという人間の本来持っている性の在り方の自然な形があったように思います。

女は社会的に守られるものであり、守るのが男の役目であるという社会認識があるから、人の心もそうなるのでしょう。

ドイツの社会は、女性が大切にされる社会でした。

そういえば、ドイツの現在の首相はメルケルさんという女性ですね。

そのためか、私自身もこのような環境の中で、女性を大事にする習慣が身に付きました。

でも、帰国後に、日本は女性が本当に生きづらい社会だと改めて再認識するようになりました。

日本社会の悪しき習慣

3歩下がる女性

ドイツで暮らしているときに、日本人の振る舞いで異様に映る光景がありました。

それは、日本人の駐在員夫婦が街を歩くときに、ご主人の後ろを三歩下がって女性が荷物を持って歩いている姿です。

私は、よくドイツの友人たちに、なぜ日本人の夫婦は並んで歩かないのかと尋ねられたものです。

日本では、そうすることが女性としての美しさだと言われますが、世界ではそのように理解してはもらえないんですね。

ドイツ人が散歩をする国民だということはご存知かと思います。

日本人は、散歩に健康増進とか、血行をよくするとか、いろいろな目的を乗っけたがりますが、ドイツ人にとっては、散歩は散歩。

散歩することそのものが目的なのです。

よく見ると、確かにドイツでは、当たり前のように老夫婦が肩を並べて散歩しています。

仲がいいのか悪いのかはわかりません。

夫婦げんかもあると思います。

でも、当たり前のように腕を組んで、並んで歩く。

このような夫婦の姿を見るにつけ、互いの存在を認め合っている、そんな心をくみ取ることができます。

どんなにけんかしていても、悩み事があろうと、朝は、日課として二人で寄り添って歩く。

これが日本でも見られたら、すてきだなと思うのです。

男社会である象徴的な出来事

日本の社会は、まだまだ女性の権利が大切にされない社会です。

今から30年ほど前のことになりますが、かつて、私が勤めていた職場で、こんなことがありました。

妊娠したことを学校長に報告しにいった女性教諭が、憤慨して戻ってきたのです。

校長から、

「で、産むのかね。」

と言われたというのです。

祝ってもらえるものとばかり思っていたその教諭は、人権問題に関わることだと組合にそのことを訴えました。

校長の立場からすると、欠員が生じることで、学校運営に支障が出ることはわかりますが、その言葉には人間としての本質が出ていると感じざるを得ませんでした。

私も、心情を察し、当時あふれ出てくる怒りの感情を聞いてあげたものでした。

すべてがそうだとは思いたくはありませんが、仕事を優先するあまりに、こういうことが平気でまかり通ってしまうのが日本の社会の現状でした。

今、ようやく、そういうことも社会問題で取り上げられるようになってはきて、ひとまず安心しています。

社会の中にある性への歪み

日本の地下鉄に、朝夕の時間帯の女性専用車両がありますが、イギリスでは 「女性に対して侮辱的」「女性が別の車両に追いやられるのはおかしい」「女性の行動の自由を抑制する」と言う理由で導入されていません。

他の国(例えばブラジル)では、車両内でも殺人や恐喝など、身の危険に及ぶ犯罪も多いことから、実際に導入されていることもあります。

しかし、私はこれが日本に導入された理由が痴漢対策の一点であることに、グローバルな視点では恥ずべきことではないかと思っています。

その理由は、これをやる男は、女はそうされても声を上げないで泣き寝入りをするだろうという先入観を持っているからであり、女を自分の欲求を満たす道具として見ていることでもあるからです。

性の欲求をそういうことでしか満たすことができない男が多いということに、現代社会の大きな問題があります。

朝夕のラッシュ時には、体が密着するほど混雑することを考えればやむなしということにもなるわけですが、諸外国とは質の違った問題がそこから見えてきます。

ヨーロッパの女性は、一般的に気性が激しく、自分の主義主張をはっきりと表現しますので、電車の中で体に触れようものなら、軽蔑のまなざしで見られるか、頬の一つでも殴られるのが関の山です。

また一方、確かに女性専用車両によって、女性は痴漢被害にあわなくてすむようですが、ある意味、日本の女性もヨーロッパの女性並みに自らを守る強さがあってもよいのかなとも思います。

嫌なものは嫌だと声を張り上げて、頬の一つもぴっぱたいて、にらみ返していいのです。

それが、当然の自己防衛です。

これは、奥ゆかしさや控えめさを美徳とすることとは、質の違うことです。

社会全体が、女性は守られるべきものという理念で動きつつも、まだまだ潜在的には男は女を自由に扱おうとする意識をもち、女には自己主張しきれない何らかの抑止力がはたらいているのが現状ではなかろうかと思います。

これは、性被害を受ける女性が声を挙げにくい社会であることも一因にあります。

日本の政治に、女性が半数参画し、そしてその延長で女性総理が誕生したら、少しは社会全体の意識が変わるのかもしれません。

真の平等とは異質を認め合うこと

男と女が平等であるということは、どうあることが望ましいのでしょうか。

マスコミもこういうことを書きたがらないのは、現在の社会がそのことに異様に敏感になっていて、男女平等に対して一言でも異を唱えたら、一斉にたたかれることがわかっているからです。

当然、テレビ番組で見る各コメンタ―もこのことについては言葉を選びます。

言葉を選びながら、差しさわりの無いように男女平等であるべきだという論調に終始するだけで、その本質にふれることを怖れています。

では、真の男女平等とは、どうなることを指すのでしょう。

それは、女が男と同じようなことをすることでもなく、男が女のようになるということでもないと思います。

肉食女子が増え、草食男子が増えたといわれることも、過去の行き過ぎた状態を修正する意味でつかわれていることで、それが平等のあるべき姿ではありません。

私は、これまでの経験上、男と女は人間としては同じではあるけど、心も体も異なる生き物であると思っています。

だから、男と女がすべて平等だからと言って、その役割まで同じにしようとする考え方には賛成できません。

例えば、一例を挙げれば、重いものを男が持つことは当然なことであり、細かな作業が平然とできるのは女の役目であっていいと思うのです。

男だから、女だからと区別するつもりは決してありませんが、それがごく自然なことです。

私は、その責任は、学校教育にもあると思っています。

何でも、平等にしてしまう考え方は、すべてが同質でなければならないという妄想を生み出します。

次の例は、平等主義の暴走とも言えるものです。

学校教育の中で、どの子も同じようにという理由で、運動会でのかけっこの順位をつけないようにするという指導が一時ありました。

当時現場にいた私は、アホかと本当に思いました。

そもそも、人はそれぞれが違った存在です。

生まれた家庭も、育った環境も違って当たり前です。

それを受け入れて正しく学ぶことが、学校教育では大切であり、一律に同じでなければならないということはありえないことなのです。

順位をつけないという愚行は、人はそれぞれ違っていることを経験を通して学ぶ絶好の機会を放棄していることに他なりません。

人と人は違っていていいのです。

だから、男と女も明らかに違うことを、誰もが正しく受け止めていかなければなりません。

真の平等とは、異質であることをきちんと理解し、認め合うことです。

男と女の心の違い

基本的生活習慣、モラル、協調性、責任感、寛容さなど、おおよそ外にはたらく心の在り方に、そもそも男女差はありません。

もし、これらに男女差を感じたら、社会的な制約を受けているからに過ぎません。

例えば、男のくせにめそめそするな、女のくさったのなどという、性差別用語が本人の心に作用するか、外から見る評価者に働いているかのどちらかです。

根本的な心の構造には、決して性差はありません。

では、違いがあるとしたらどこにあるのか。

私は、性が心の在り方の違いを生み出していると思っています。

それは、男は種をまき、女はそれを受け取るという身体構造にあります。

植物の生態からわかる性の違い

植物の場合で考えてみましょう。

種子植物は、雄花と雌花を咲かせます。

例えば、カボチャやキュウリの雄花の雄しべには何千個の花粉がついています。

そして、たくさん咲いている雄花の中に、根元が花柱の下にぷくっと膨れた子房を持っている雌花を見つけることができます。

雄花は、独特の色とにおいで昆虫類を呼び寄せ、昆虫の足先につくために粘着性を持たせ、その花粉を雌花の元へ運ばせます。

雌花の柱頭に、昆虫類が止まったときに、受粉され、実をつけ種子を作り出します。

雄花の役割は、種子を作り昆虫を呼び寄せ、花粉を雌花へ届けることであり、雌花の役割は、受粉して新たな種を作り出すまでの過程にあります。

生物学的に見る男の本能

人間も生物学的には、これとまったく同じです。

男は精子を絶えず作り、それを女に与えることで役目を果たし、女は精子を受け取り、卵子に着床させることで新たな生命を産み出します。

女が精子を受け取った後、それを時間をかけて育むことになりますが、その間も男は絶えず精子を作り出し、それを放出し続けます。

あまりいい印象を持たれていない言葉に、スパムメールというものがあるのをご存知かと思います。

スパムは精子という意味で、メールを日常的に無差別にばら撒くということがそう言われる語源です。

男は、精子を自らの体内で作り、外に放出することが本能として備わっている生き物です。

こういう事実に目を背けたがる方もいるかもしれませんが、きちんと理解することが大切です。

女性は、まずそれを理解をしてください。

生物学的に見た女の本能

雌花は、たった一つの花粉を受粉した時に花弁は用のないものになって自ら枯らし、時間をかけて実をならせ、種子を作り出します。

人間も同様で、女は受精した途端に、他の精子を受け付けなくなり、子宮の中で育つ生命を育み始めます。

月ごとに精子が着床できる準備ができると共に、女は自らの性への欲求に直面します。

許しを与えた相手から精子を受け取り、生命を作り出すことを女は何万年の歴史の中で繰り返してきました。

こんな詩があります。

繰り返し襲ういきみの波
土から覗き始めた卵膜に触れる
私は生き物
卵膜が破裂し、羊水が流れ出る
少しずつ少しずつゆっくりと赤ちゃんの頭を感じ
出すにつれて、私の体はふわっと軽く持ち上がり、どこかの宇宙を一人漂っているようだ
私の全身がいつの間にか希望に包まれている
遠くで声が聞こえた
いい顔してるわねえ
不思議な心地よい時間だった
羊水のにおいとピンクのレールに包まれて

これは、助産所で出産したある女性が書いた詩です。

出産は、自分の選んだ種子を授かり、一つの命を誕生させるという大きな儀式です。

そこには、無限の喜びであり、役目を果たした安堵感であり、大きな仕事を成し遂げたという達成感があるのです。

子どもを得たことにより、どのような心情が生まれるか、それは出産した女の立場でしかわからないものだと思います。

今でこそ、出産に立ち会う男の姿は珍しくなくなりました。

でも、その喜び、苦しみ、すべてひっくるめて経験する女の感情は、おそらく、男には、永遠にわかり得ない感覚に違いありません。

男は、3キロの米袋をおなかに縛りつけて、買い物に出かけてみることです。

それを数カ月も続ける女の気持ちが少しでもわかれば、女性に対する見方や感じ方も変わってくるはずです。

自家受粉を望まない種子植物

キュウリを育てる場合には、畝に最低でも50cm開け、株分けして苗を植えると良いと言われます。

そうすると、異なる株間同士で受粉が活発に行われ、実をつけるというものです。

実際に育ててみるとわかりますが、一つの株だけだと実がつきにくいことがわかります。

それは、自家受粉が行われにくいことが理由です。

植物でも、自分以外の他と交わることを望んでいるということです。

人間も同様で、自分とは異なる場所や環境で育った異性に惹かれます。

そして、周りにそういう意中の存在があれば、男でも女でも、いつでも自分の本能の対象になり得るものだということです。

実際の話、下のようなことは誰にでもある性が引き起こす心のはたらきによるものです。

ちょっとスレンダーな美人につい目がいってしまう。

イケメンの好みの男に胸がどきどきしてしまう。

本能と共に、人間には感情が働きますので、当然のことです。

人類にだけ限らず、すべての生物は、これがあるからこそ子孫を現代にまで存続させてきたのだと言えます。

一夫一婦制の果たした役割

でも、人間は本能だけで生きているわけではありません。

ホモ・サピエンスに始まった人類が進化を遂げたのは、一夫一婦制が定着したからだと言われています。

人類は、家庭を持つことで、一ヶ所に定住し、家庭の中において男女の役割を明確に分担しながら知恵を磨き、言語というコミュニケーションを習得し、飛躍的な進化を遂げてきました。

家庭を持つことで、男は家族を養うという責任を自覚するようになり、労働への意識を高めてきました。

女は、強い男と家庭を持つことで、飢える心配をすることなく安心して子育てに専念できる環境を作り出すことができるようになりました。

その延長線上で、近代民法においては、婚姻の定義として、倫理上一つの家庭には相手はただ一人だと定められています。

人間が本能として持っている部分

しかし、本能的な観点では、この枠に収まりきらないものを持っていることも人間の性なのです。

人類の祖先であるチンパンジーやゴリラの中に多夫多婦制が今もなお残っているように、人間のDNAの中にもそれが潜在的にあるものと考えられます。

以前UAEに滞在していた時に、ブルジュハリファ(828mで世界一の高さのビル)で白装束で頭にはグドラと言われるスカーフをかぶり、イガールという黒くて硬いロープ状のバンドで固定した服装をした男性が、8人もの女性を後ろに従えてさっそうと歩く姿を目にしたことがあります。

これは、一夫多妻の典型ですが、何人もの女の生活を保障できる男、不自由なく暮らせる生活を保障されたいと願う女との関係で成り立っています。

これに似た風習を持った民族は、世界の中にたくさん存在しています。

我々の社会を見ても、お金をたくさん持った人に浮気が多いと言われるのにも、そういう理由があります。

権力や財力が、そういう本能を呼び覚ますとも言えるでしょう。

最近では、お金を稼ぐ女がホスト通いをして、数千万円のお金を使い果たしたなどという話を耳にしますから、本能という観点では本質的に同じものがあると言えます。

相談者の中にも、浮気や不倫がやめられない、そういう方が時々いらっしゃいます。

そういうお話に出会う度に、カウンセラーは潜在意識の中に在る人間としての本質を見ることになるのです。

性依存症とかの学術的な枠組みで見る前に、その心の在りどころを見るようにしています。

ですから、例え浮気であっても、不倫であっても、必ずそうする理由があると思って、肯定的にお話をお聞きします。

そして、その原因の中に、人間としての本能的な部分が見い出せると、すんなりと心を理解できることがあるのです。

いいとか悪いとかの倫理的な観点で人を裁くのではなく、認めざるを得ないこと、受け入れざるを得ないことというのが本当のところです。

実際のところを申し上げれば、クライエント様側も、性としての欲求は、カウンセリングの場において、話しづらいものです。

でも、この扉が開かれ、自己承認されていくと、本当の心の在りどころに到達し、心が解放されていくということは、多くのクライエント様を通して私が実感していることです。

理性という枠組みを外してみたときに、人間の本性がよく見えるようになります。

今回、私が、あえてこんな話題に踏み込んでいるのも、人として内在するエネルギーをトータルに見つめたときに、この問題から逃れることができないからに他なりません。

人間には、明らかに本能的な部分が備わっていることを素直に感じてみましょう。

「愛する」の反対語

「愛する」の反対語は何だと思われますか。

「憎む」ではありません。

愛憎と言う言葉があるように、それは表裏一体のものです。

愛しているからこそ憎むのです。

例えば、浮気をした相手にやきもちや嫉妬心を持つようならば、それは愛しているからだと言えます。

愛するの反対語は、文法的には愛さないですが、愛さない状態、愛のないどうでもいい状態は、「無関心」と言います。

つまりは、路傍の石のような状態になることでしょうか。

その辺に転がっているような石のように扱われていたら、もはや愛はないものだと言えるでしょう。

だから、浮気をされたら、嫉妬で狂いそうになり、相手を罵倒したくもなるし、浮気相手をどうにかしてやりたいと思うのも愛の裏面にある一つの形です。

感情に走りたくなる心は、人間が本来持っている本能的な部分により近い状態です。

それも、認めて受け入れていくことです。

愛は理性によって育まれる

人間は、心で惹かれ合った者同士が愛を交わし合い、新たな生命を得ます。

そこに存在するのは、「愛情」という目に見えないものです。

相手に思いやりの言葉をかけること。

相手の存在をいとしく思えること。

相手のために何かをしてあげようと自然に思うこと。

お互いに言葉を交わし合わなくても通じ合える何かを感じること。

これらは、愛情に支えられてこそ、感じ取れるものだと思います。

相手を大事に思うからこそ心を傷つけないようにしようとすることも、愛情があるからこそのことだと言えます。

でも、その裏では、もう少し違った感情が働くことがあることを認めなければなりません。

相手に裏切られたくない。

自分の近くに置いておきたい。

自分だけのものにしておきたい。

嫉妬心、所有感、独占欲・・・・。

どんな人間にも、こんな感情があることを認めましょう。

実に、どろどろとした、汚い感情ではありますが、愛の裏側には、そういった心もはたらくことを覚えておいてください。

愛と憎しみが表裏一体のものだという理由がこれにあたります。

カウンセリングでは、持つべきでないと思っている抑圧された感情までも自己受容することが大切なことなのです。

でも、どんな感情を持とうとも、我々人間には、それをコントロールする術があります。

それが、理性です。

私たちは、理性をはたらかせながら、愛を生み出し、育んでいくことができます。

現代人の恋愛

私は、恋愛にも、上手な恋愛があると思っています。

相手に好きだという気持ちを伝えるすべに特別な技術は必要ありません。

ただひたすら、関心を持っていることを示すことです。

よく、子どもが女の子のスカートをめくる行為がありますが、あれはまさに好きな子への関心を表した行動です。

子どもは、コミュニケーションの方法を身につけていませんので、そういうことが平気でできるのです。

でも、関心を持ったとしても、相手がそれをどう受け止めているかを理解する能力が必要です。

関心を持つ行為と、相手の心が満たされる行為が一致した時に、心が通じ合えるものです。

これが、不得手な人が今とても多いように思います。

ややもすると、恋をすることに臆病になってしまったり、相手に近寄り過ぎて不快感を与えてしまったりすることがあります。

また、付き合いを深めていく中で、相手を隷属的に扱ってしまったり、依存してしまったりするのも、心のはたらき方に問題があります。

まず初めに、相手ありきという発想が、本能だけではない理性をも働かせた好ましい愛のあるべき姿です。

男の心と女の心は違います。

何よりも性による心の在り方の違いをわかっていること。

そして、その違いを認め合い、尊重し合えること。

そんな男女の恋愛は、必ず育まれ、膨らんでいくことでしょう。

関係の冷めた夫婦にありがちなこと

すでに、夫婦になっている関係においても、心のすれ違いを感じていたら、お互いの心の在り方の違いを再確認することが必要な時かもしれません。

味噌汁の味が濃い薄いでもめる。

窓を開けるか閉めるかで言い争う。

エアコンの設定温度の違いでけんかする。

風呂に入る時刻が違うことでイラつく。

シャワーで済ますか、バスタブに湯を張るかでもめる。

就寝時に真っ暗にするか、小さい電球をつけるかで言い争う。

車の運転の仕方の違いでもめる。

何にお金を遣うかで言い争う。

カウンセリングでは、掃き出しの60分間でこんな話題がよく出されます。

じっくり共感して受け止めますが、最後には、あなたの心の世界ではそのように映るのですねと言うことにたどり着きます。

でも、冷静に分析すると、男の立場、女の立場と言うものもそこには存在していることがわかるのです。

夫婦げんかの原因

馴れ合いや依存心

夫婦は、元々は他人同士です。

でも、一緒にいる時間が長くなるにつれて、お互いに適切な距離感を見失いがちです。

これが、馴れ合いや依存心を生み出します。

例えば、男は家の外で人間関係に気を使うから、家の中では好きにさせてほしいと身勝手な思考を持ったとします。

そして、女は、なんでそんなことくらい自分でできないのかと腹立たしく思っているとします。

馴れ合いや依存心が生まれていたら、相手への思いやりや配慮が持ちにくくなることを理解しましょう。

当然、夫婦生活で最も大切な性の違いによる相手理解と言うものが欠けていることも明らかなことです。

​どちらかに負担がかかり過ぎる

昭和初期の亭主は、「めし・風呂・寝る」しか言わないなどと、よく言われました。

これは、今でこそお笑い話にされますが、当時は、働いて一家を養っている責任を果たしている男は、こういう亭主関白な部分が当たり前であったということです。

この時代、さすがにこんな人はいなくなったと思いますが、もしも、着替えた服を脱ぎっぱなしにしたり、食事の後は食器を食べっぱなしにしたりする人がいるようなら、考え直してみましょう。

家の中は、台所・リビング・トイレ・お風呂など、一人で使う場所よりもみんなで使う場所の方が多いものです。

​現代のように、多くが共働き世帯であれば、家事にも役割分担が必要なのは当然のことです。

かといって、女が男をいいように使いまわし、送迎をさせる、夫の給料で高級服を買い込む、好きな趣味に興じる・・・、なんてこともおかしなことです。

女は男の召使ではありません。

男は女の道具でもありません。

どちらか一方が、そんなことを感じるようであれば、夫婦生活のバランスが崩れているのです。

仲の良い夫婦に必ずある4つの要素

これからの時代のより良い夫婦の在り方について考察してみます。

私は、自らの経験を通して、仲がうまくいく夫婦には、必ず下の4つがあるものと考えます。

1 お互いの所在が分かっている

仕事の帰宅時刻や飲み会に出席する際は、最低限どこに誰と出かけて何時頃に帰るのかは伝達しておくべきでしょう。

報・連・相(報告、連絡、相談)は、会社だけではなく夫婦の間であっても大切です。

こういうことを当たり前にできているご夫婦には、不安を抱く理由がありません。

​2 日常的にコミュニケーションを取る

私がドイツで見た日本ではあまり見られない習慣を2つご紹介します。

①食事をするときに、「Guten Appetit」(さあ、召し上がれ)と声をかける。

Appetitは食欲と言う意味です。でも、この言葉をかけられると、なぜか作ってくれた人に感謝の気持ちが湧き上がってきて、食べ終わった後に「Danke schoen」(ありがとう)「Es hat sehr gut geschmekt」(とてもおいしかったよ)という心のコミュニケーションが生まれるのです。フランスでは、「Bon Appetit」と言います。

②くしゃみをする度に、「Gesundheit」(お大事に)と言う。

ドイツでも春先にカスタニアの花粉が飛び散り、くしゃみを連発することがあります。そんな時に、連発してくしゃみをする度に、「ハクション」「Gesundheit」、「ハクション」「Gesundheit」と言葉の掛け合いをします。私は、4回くしゃみをして、4回言われたことがあります。こんな時に、シラーとした目で見られるよりも、なんだかおもしろい習慣だと思いませんか。

つまり、言葉をかけあうことは、お互いに関心を持つことであり、それが大事にされている感覚を生み出すことにもつながっているのです。

ここカンボジアにも、変わった習慣があります。

朝の挨拶は、「おはよう」ではなく、「Nyam bai haui?」(朝ごはん食べた?)というものです。

お互いの生活ぶりにまで踏み込んで関心を持ってあげるという意味で、面白い習慣だと思っています。

美容院で髪を整えてきた奥様に、「きれいになったね。」「その髪型、似合っているね。」とたったの一言いってあげるのと、見て見ぬふりをしているのとでは大きな違いがあります。

反対に仕事で疲れて帰ってきたご主人に、「お疲れさま。」「今日はどうだった。」とたったの一言声をかけるだけで、次の日もがんばろうという意欲につながるものです。

このように、お互いに構い合える場は、日常生活の中にいくらでもあるものです。

こんなコミュニケーションを意外におろそかにしている夫婦が多いのです。

特に、日本の男は、こういう表現が不得手だと言われます。

たった今からでも、実践してみることです。

習慣づけば、何のことはありません。

女はいつでも存在を認めてもらいたいものだということを肝に銘じておくことです。

反対に、女も、男を立ててあげることが、やる気を引き出す最大の手段であることを知っておきましょう。

男はとてもプライドが高い動物です。

やっていることを認めてあげるその一言が、男を本当の男に仕立てます。

例えば、男の仕事に、価値を与え続けるだけで、男はせっせと精を出して仕事に励み、あなたに財をもたらすことは間違いありません。

これらを心得て、実践するだけで、お互いの存在を確かなものにし、家庭生活がうまくまわっていきます。

3 お金の価値観を共有している

物質的に満足のいく生活ができないと、心も貧しくなっていくものです。

必要なものが買えなかったり、食べたいものが食べられなかったり、はたまた行きたいところにも行けなかったりすると、不満が生まれてくるのは当然のことです。

でも、その前に、家計の見通しを立て、お互いにどんな生活を望んでいるのかという人生における価値観のすり合わせができているかどうかを見直してみませんか。

その目的は、お互いの収入でどのようなライフスタイルを作り上げることが望みなのかを夫婦そろって共通理解し、共有し合うことです。

これを、ぜひ二人で楽しくやってみてください。

贅沢を求めたら、きりはありません。

衣食住そろっていれば、最低限の生活が送れるものです。

金銭的な理由で夫婦げんかに発展するケースは、お金に対する価値観が共有できていないことが原因です。

親の養育に費用がかかったり、兄弟に仕送りしたりと、家庭外にもお金がかかる場合もあります。

その場合には、相手の了解を得ることがとても大切なことです。

お互いにとことん話し合って、理解を得られるように努力するべきでしょう。

へそくりも必要悪かもしれません。

でも、お互いに風通しがよく、心をオープンにしている方が健全に生活できると思いませんか。

お金の価値観は、人生の価値観につながるものです。

同じ屋根の下で生活する者同士ですから、そこがわかり合えていないと、いつかそのことが軋轢となって、争いごとに発展していきます。

未来に向けて”家を建てる”、”旅行に行く”等の共通の目標を持てれば、2倍の力になり、うまくやれば2乗のエネルギーを生み出すこともできるのです。

4 夜のコミュニケーションを大切にしている

先の章で書きましたように、性の欲求は、人としての原点であり、本能です。

よく周りで週の回数を平均で出している記事がありますが、そんな情報に迷わされる必要はありません。

ご夫婦が本当の心に従って、行動しているのなら、その状態が適しているということです。

でも、現代はストレスの多い社会です。

男は、仕事のノルマや責任を抱え込むと欲求が著しく減退することがあります。

女も同様で、仕事や育児・家事に追いやられる日が続いてしまうと心に余裕を持てなくなりがちです。

それが、ずっととなるとさすがに「自分に対して愛情がない。」「浮気をしているのではないか。」と疑いの心が生まれることになります。

そこから、お互いの心の満たされなさを抱えることになり、その心が別の不満を作り上げていきます。

この話題は、夫婦であっても口に出しにくいため、欲求不満の感情が別の原因に置きかえられて、言い争いに発展することがよくあります。

コミュニケーションの方法は、実のところいくらでもあります。

例えどんなに疲れていても、手を握り締めてあげる、そっと抱き寄せる、ライトキスをするなど、いくらでも愛情表現があることを知ってください。

愛情は、目に見えないものだからこそ、目で見えるように表現する、耳で聞こえるように表現することが大事です。

これらを、さりげなくできるような素直な心でいることです。

オープンマインドでいることが、よい夫婦仲には欠かせません。

子どもを一人で寝かせることの効果

夫婦二人だけの生活も、子どもを持つとこれまでとは事情ががらりと変わってきます。

女は、出産後には、妻と母の両面を持たなければならなくなるからです。

赤ちゃんにとっては、お母さんがすべてですから、自分の所有物のようにすべての要求を母にぶつけてきます。

そして、感情の多くを母親から吸収するのです。

子どもはそうして育ちます。

これは、仕方がありません。

3歳児までは、できるだけ寄り添ってあげる努力をしましょう。

そして、夫婦二人三脚でその形を作り上げていきましょう。

でも、ずっとべったりしているのがいいかと言うと、それも違います。

ヨーロッパでは、どんな小さな赤ん坊でも、寝る時には一人で寝かしつけます。

そうして、自分一人の時間を作ることで、自立心を生み出すのです。

アメリカの映画でも、夜はベッドに一人で寝かしつけ、長期休業にはサマーキャンプに参加させ、夫婦の時間を作っているシーンを目にしたことがあるかと思います。

子どもに自立心を育てながら、夫婦で共に過ごす時間を手放さないということです。

子育てを理由にして、夫婦のコミュニケーションをおろそかにしていませんか。

例え子どもができても、 夫婦仲を保つ努力は怠らないようにしなければなりません。

一人で子育てをしないこと

私の子ども時代は、本当にほったらかされ状態でした。

姉におぶられている白黒写真が数枚見ただけで、実際に、私は母親に抱かれている写真を見たことがありません。

祖母によく面倒を見てもらった記憶だけがよみがえります。

昭和の時代は、子だくさんの時代でしたので、兄弟姉妹が下の子の面倒を見ることは当たり前のことでした。

母親は、朝起きて朝食の支度を終えると、手洗い桶で洗濯板にこすりつけて家族の汚れ着を洗濯して干していました。

夕食を一家10人分作るのを、買い物から、かまどの火おこしから、米とぎ、具材の準備を午後3時には始めていました。

そして、片付けすべて終わるのが7時過ぎでした。

今のように、お店に行って何でも買える時代ではありませんでしたし、炊飯器・洗濯機・冷蔵庫でさえも持たない生活でした。

その中で、一家のすべての家事を主婦が忙しくこなしていた時代だったのです。

転んだって、そんなのつばぬっときゃなおるといわれましたので、絆創膏など貼ったことはありませんでした。

そのおかげか、雑菌にも強く育ちましたし、決して生活環境の良くないこの国で暮らしていてもおなかを下すこともありません。

ほったらかされた結末にも、プラスに働くことがあるものです。

でも、結構自分の好きなようにやらせてもらえて、遊びを通して人生の基礎に当たる部分を子ども時代に作り上げたのかなと思えます。

もしも、あなたが一人だけで子育てを抱え込み過ぎていたら、そのくらいの気持ちで構えてみてもいいかもしれません。

多少、子どもから離れる時間もあっていいのだということも覚えておいてください。

今の世の中、学校にも、社会にも、人を育てる機能も役割もあります。

かつて、私が中学生になりたての頃、電車料金をごまかして子供料金で乗ろうとしたところ、駅員に見つかってこっぴどく怒られたことがありました。

社会のルールを親からでなく、他人から教わった良い例です。

かえって、その方が子どもには良い影響をもたらすこともあります。

夫婦であることは性の違いを理解するチャンス

女には、妊娠時の安定期に入るまでの期間や生理の周期、家事・育児のストレス等で性的な欲求が高まらないときがあります。

妊娠5か月前までのつわりの苦しさ、生理痛などは女にとってはとても辛いことです。

これらについては、男の理解度はかなり低いものと思ってください。

実際に、こんなことを経験している人が多いのではありませんか。

小中学校の保健指導で、この時間は女だけの授業時間だから、男は運動場で遊んできなさいというものです。

私は、本来なら、女に初潮指導を行う裏には、それを理解し支える男への性の指導があるべきだと思っています。

ましてや、自分自身の性についてもろくに教わってきていないとなると、男女の性について自分本位な感覚でしか考えられない大人を生み出すことにもなります。

反対に、女も男の性について正しい理解を持っている人は少ないとも言えます。

学校教育に長年携わってきたからこそ実感していますが、これまであいまいにされてきた性教育にその大きな原因があります。

とにかく、お互いの性についての理解が低いというのが現状です。

お互いに宿命として定められた性に対して正しく理解をしているのとそうでないのとでは、心の在り方に大きな違いが生じます。

書籍から情報を得るしかなかった昔に比べ、インターネットの普及した現在は、いくらでも入手できます。

どちらかの性に偏りすぎて記述していない公正なサイトを見つけ、今からでもお互いの性についての正しい知識を得ることも可能です。

生涯にわたって知らないでいることは、大きな損失です。

もし、それでもわからないことがあれば、お互いにわかるように優しく教え合えるといいと思いませんか。

男って、こういうところがあるんだよ。

女って、そういうものなのよ。

こんな会話もとても素敵だと思えるのです。

性と向き合って生きる

美しさに年齢は関係ありません。

どんなに年をとっても、性のもつ品格は表現できます。

男なら、アイロンのかかったシャツにパリッとしたスラックスをはいて、さっそうと歩いてみませんか。

男らしさを思いっきりアピールできます。

女なら、身だしなみを整え、清潔な服装でチャーミングなブローチの一つも身に着けて歩きませんか。

年齢に関係なく、自分が素敵な人だと思えてくるはずです。

お互いに、異性として触れたい・触れられたいと思わせる魅力を保つ努力をすることはとても大切なことです。

絶えず小さなアップデートを怠らないこと、そして時にはマイナーチェンジも効果的です。

もし、見向きもしないようなご主人であれば、普段着ることのないような服装で思いっきりメイクアップして、ほめ言葉のひとつでも言わせてみましょう。

言わなければ、こちらから、「どう、似合ってる。」とちょっと強引に誘いかけるのもアリです。

年を重ねても、性まで枯らしてしまう必要はありません。

自分の性をきちんと自覚し、自己受容できれば、相手の性もありのままに受け止めることができるようになります。

もう、花は咲かないとあきらめていた心のときめきも、いくつの年になっても経験できるのです。

性は生まれ持った宿命であり、あの世へのお迎えが来るまで、ずっとあなたが持ち続けるものですから。