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自分の決めごととその背景に気づけば人生までも変わる

心の理解と活用
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まずは自分の決めごとを感じてみる

小学校2年生の時、街を歩くと手足のない戦争被害者や身なりの汚い傷痍軍人のような方々が、空き缶一つを前において道の端に座っていました。

あるとき、私がポケットに入っていた小銭をあげようと近づこうとしたところ、母親に「近寄っちゃダメ。」と制止されました。

なぜダメなのか、当時は考えもしなかったのですが、小さかった私は「そうか、ダメなのか。」とあきらめることにしました。

「僕があげなくても誰かがきっとあげるに違いない。」

「ほんの5円あげただけでは何も変わらないだろう。」

子どもの頭で、どんな思考をしたのかは思い出せませんが、おそらく自分の果たせなかった心を癒すために、いろんなことを考えてその感情を封印していたのだと思います。

それからずっと時が経ち、成人した時、私は、人に寄付をしたり、困っている人にものを与えることをしない大人になっていました。

無意識の中で母親の言葉を忠実に守るために、「自分一人がそんなことをしても何も変わらないんだ。」という勝手な思考を作り出していたのです。

言い訳という自己防衛心から作られた思考パターンですね。

これが、私にとって、不自由さを生み出す決めごとの一つでした。

インナーチャイルドも絡んでいたのかもしれません。

そうすることで、幼い自分を守ろうとしていたとも思います。

 

決めごとは書き換えられる

更に時は経って、この決めごとを再び強く感じる出来事がありました。

30代半ばで、ドイツに駐在していたある秋のこと。

当時、ドイツでもハロウィンの習慣が流行り始めていて、私が車にガソリンを給油しているときに、仮装をした10歳くらいの男の子が近づいてきました。

そして、おもちゃの剣を手にして「trick,or treat」と弱々しい声で右手を差し出したのです。

私は、思わず見ないふりをして、手であっち行けと追い払うしぐさをしました。

これは、私の決めごとが生み出す行動パターンそのものでした。

すると、その子は一瞬とても悲しそうな目をしたのです。

家に帰った後も、その表情が目に焼き付いて、頭から離れませんでした。

「きっとあの子は心が傷ついているに違いない。」

「東洋人のことを優しさのない人種だと偏見を持つかもしれない。」

初めは、自分自身を責めました。

子供にあげるくらいの小銭は持っていたのに、なぜあげられなかったのかと自問自答を続けていた時に、はっと気づいたのです。

子どものころに母に言われた「近寄ってはダメ」という言葉が、ありありとよみがえってきたのです。

この時に、徹底的に自己分析を重ねました。

 

母がなぜ私に近寄ってはダメと言ったのだろうか。

身なりが汚いことから、ダニやシラミが移ると思ったのではないだろうか。

それとも、軍服を着ていたから身の危険を感じたのではないのか。

本当に人に小銭をあげることが意味のないことなのだろうか。

そこまでこだわり続ける必要があるのだろうか。

 

原体験であるあの時のシーンと言葉。そして、自分の行動が妨げられた時の感情。その後、自分で作り上げていった思考。それらが、見事につながっていったのです。

私が、自らの思考癖と生み出される行動パターンに気づいたのがこの時でした。

 

そして、その20年後、私はカンボジアにきました。

今では子どもたちに平気で持ち金をあげることができます。

バスを待っていると、老婆がしげしげと私を見つめながら両手を顔の前に合わせます。私は、ポケットにいつも500リエル札(約12円)を数枚入れておくので、それを迷いなく渡します。

店で食事をしていると、物売りの少年がやってきて、手を合わせて私の目を見つめます。そしたら、何か一つ買ってあげます。

有名なパゴダ(寺院)には、物乞いをする人々が大勢います。一人の子どもにお金をあげると「気前のいいおじさんがいる。」とその子から情報を聞いたのか、後から後からわんさかとやってきて私の前に列を作ります。そんな時でも、小銭を持っているだけあげてしまいます。

お店の駐車場で、駐車番をしてくれている係りの人にお礼を平気で渡せます。

レストランで、チップを払うことにもそれほど抵抗はありません。

もちろん、それがいいことだと自慢するつもりは全くありません。そんなことで世の中が変わるとも思っていないし、支援にもならないことだと思っています。

でも、

一人の人間に小さな喜びが生まれるのなら・・・、

その人の一日がそれで幸せになるのなら・・・、

 

自分ができることはしてあげたいというのが今の素直な気持ちです。

それは、幼いあの時にできなかったことを今実現しようとしているのかもしれません。

自分も喜びを受け取るから、あげているようでもらっていることを実感しつつ・・・。

 

「近寄ってはダメよ。」

 

母親が子どもを守るために言った、さりげないほんの一言だと思います。しかし、子どもはそれを忠実に守ろうとします。そして、自分で意味づけをしながら独自の観念を作り上げていくのです。

そんな私が、今カンボジアに滞在しています。人に小銭をあげるどころか、教育支援活動というもっと大きなプロジェクトを通して、人々に幸せを運ぶことに携わっています。

NGOを立ち上げ、支援者が周りに集まり、想いはどんどん加速していきます。

今の自分を見るにつけ、母の言葉から自ら作り上げた心のブロックが完全に書き換わっていることを実感するのです。

プノンペンの交通事情

上とは、また違った話題です。

私は、30年以上自動車に任意保険をかけてきましたが、一度も使ったことがありません。

その支払総額は、もはや数百万円以上かというほどでしょう。

そんな安全運転に自信を持っている私でも、ここに来た1年前にはその壮絶な交通事情に完全にビビりました。

ここは、カンボジアの首都プノンペン。

バイクがあまりに多いことには、経済的な背景もありますが、朝夕のラッシュ時には、道路は車とバイクで埋め尽くされます。

そのバイクはほとんどが日本のホンダ製で、車は多くがトヨタです。

でも、残念ながら日本の交通ルールは、全く通用しない社会なんです。

 

赤信号での素通り。

歩道の二輪車走行。

右折時の敷地内通行。

急な飛び出しに割り込み。

クラクションの鳴らし放題。

高速でのはみ出しの追い越し。

バイクの3人乗り。

時に集団となってやってくる逆走車両。

スマホ電話しながらのバイク運転。

小学生が運転するバイク。

 

小学生の子どもがバイクに乗れる理由は、125CC以下のバイクは免許不要なんです。

驚くことかもしれませんが、本当に何でもありです。

バイクの6人乗りも見たことがあります。(大人3人、子ども3人)

日本の交通ルールを持ち込んで、正義を主張したところで、そんなもの何の役にも立ちません。

おそらく、既成概念にこだわり続けていたら、反対に命を落とすかもしれませんし、ここでは決して生活できないでしょう。

 

決めごとが通用しない社会

これは、私の交通ルールに関する決めごとが、見事に緩まったことから気づいた話題です。

もしも、赤信号待ちで停車しているときに、後ろからやってくる車やバイクの軍団がその左右をこぞって通過していったら、そのままそこに止まっていますか。

もしも、こちらを見ていないバイクが私の前方を横断しようとしたら、クラクションを鳴らすのをためらって接触しそうな危ない目にあいますか。

郷に入らば郷に従えといいます。

今では、私も平気で赤信号での通過もやりますし、追突事故を起こすよりはましなのでクラクションも平気で鳴らします。

なにせ、人が入る隙間もないほどの車両で埋め尽くされた道路です。

右折時にGSの敷地内入り込みをして信号機をパスする走法や左折時に反対車線を逆走しながら対向車両がないところで、一気に斜め横断しながら右折レーンに入り込むテクニックなどは、こちらの人たちが身に付けている安全で要領のいいテクニックです。

日本の車やバイクで埋め尽くされているけど、交通ルールが全く違う環境。

こんな生活を送っている間に、私の交通ルールに関する決めごとは、一年しないうちに見事に書き換わっていきました。

それは、言い換えれば、自分の見ていた日本の交通社会がいかに狭いものであったかを思い知らされたとも言えます。

 

決めごとを緩めてみる

交通ルールの例は、実は表面的なもので、本質的には、自分が守っているものは他人もそうするべきという決めごとが強すぎることから不自由さを生み出していたのです。

私も初めのうちは、頑なに周りも赤信号は守るべきと考えていました。(もちろん守るべきなんですが・・・。)

そのうち、その思考を持ち続けることに疲れてきました。

まあ、T字交差点ではいいかな。

交通車両がないときにもいいでしょ。

お巡りさんも見ていないし。

くらいの思考になっていったのです。

なんて、いい加減なんだと思うかもしれません。

でも、決めごとを緩める方が、はるかに楽に生活できるんです。

 

周りに対してこんなことを感じたら自分の決めごとに気づくチャンスです。

「〇〇でなければならない。」

あなたがそう思うのであって、周りはそうとは限りません。

「だって、普通はそうするでしょ。」

あなたにとっての普通は、周りにとっての普通にはなりえません。

「みんな、そうしているから・・・・」

あなたにとってのみんなは、あなたの周りに配置されている気に入った人たちだけです。

「~べき、普通、みんな」

こんな言葉がよく出てくる人は、それがご自分の決めごとから来ている思考であることを感じてください。

 

『認知のスキーム』という言葉があります。

枠組みと訳せますが、その中に組み込まれているものを指して使います。

あなたが捉える認知は、あなただけのごく狭い世界のものです。

その枠組みから外れた世界の方がより広くて大きいと考えてみましょう。

それを実感して、緩めることができた時、あなた自身の決めごとは薄まっていくことでしょう。

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