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生きづらい社会の中で今必要なこと

心の理解と活用
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防衛機制が過剰に働く苦しさ

このテーマは、おそらく物議を起こすテーマであろう。

その理由は、私はれっきとした日本人であり、その社会の在り方を否定するような内容であるからです。

でも、祖国を愛しているからこそ、こういう考えに至るというご理解でお読みください。

 

昨日、オンラインカウンセリング講座で、様々な防衛機制を実際のカウンセリングの場でどのように見取り、受け入れるのかについて意見交換しました。

各カウンセラーたちは、それぞれの臨床の場での実体験に基づいて、様々な考えを提示し、大変有意義な研修会でした。

人の心には、いつどんな時でも自らを守ろうとする防衛機制がはたらくもので、それは誰もが同じです。

ただ、そのはたらきが過剰になると、苦しさを生み出すことになります。

なぜなら、自らの決めごとで自らを縛り付けることになるから。

 

社会における防衛機制

さて、ここからが本題です。

現在の日本は、現在の社会の仕組みを守るために、様々な決まりごとを作り、社会での防衛機制が行われているように思います。

「寛容さが失われつつある社会」ともよく言われます。

あるカウンセラーが、近所の公園の遊具に対象年齢のシールが貼られるようになったと、あきれながら話していました。

近年、小中学校が放課後の校庭を自由に使わせなくなったのもこれと同様の理由です。

これらは、管轄の地方自治体が自らを守るための防衛機制と言えましょう。

 

日本では見られない出来事

私は、現在カンボジアに滞在していますが、日本とは対照的に防衛機制の緩さを感じます。

先日、プノンペンで市バスに乗ったときのことです。

夕刻時、こちらでもバスの中は、帰宅する人々で込み合いますが、ときに電話の着信が鳴ったりします。

ある日、私の隣に座っていた中年の主婦が、着信音に気づき、バッグから堂々とハンディを取り出し、こんな会話をしていました。

主婦「なに、どうしたの。」

夫「いま、どこにいるんだ。」

主婦「道が混んじゃって、どうにもならないのよ。」

夫「子どもたちがおなかすかせて待ってるぞ。」

主婦「はい、はい。わかってます。何か食べさせといて。」

夫「家に着くのは何時になりそうなんだ。」

主婦「あと30分はかかると思うわ。」

会話が終わると、周りに座っている人たちが、主婦に矢継ぎ早に尋ねます。

「お子さんは何人いるの。」

「年はいくつ。」

「大変ねえ。」

そして、皆で今日の夕食のメニューの話題になって、各々が笑いながらああだこうだと話し合っています。

この緩さ加減、アットホームな雰囲気、知らない者同士が誰とでも気軽におしゃべりする社会。

これは、今の日本では、まず見られない光景でしょう。

そもそも、バスの中で着信音を鳴らすことはタブーであるし、通話をすることは周りから白い目線を覚悟で行うことになります。

そして、個人の生活に干渉することは、プライバシーの侵害とまで言われてしまいかねません。

 

過剰なルールが人々の心を窮屈にする

公共の場で周りに聞こえる声で個人の会話をすることは、好ましいことではないことは理解できるし、反対するつもりもありません。

ただ、公共のマナーとして、作り上げられた規則がかえって窮屈に感じることがないだろうか。

バスの中であっても、だれもが緊急の電話に応対しなければならないこともあると思うのです。

 

社会生活にルールが必要なのは当然です。

それが、我々の身の安全を保障してくれるからです。

でも、ルールの強化も過ぎると、かえって生きづらくなるということです。

人々の中で、外出するとき人目が気になる感覚を覚えたら、そういった見えないルールに縛られた社会をたっぷり意識してみることです。

もう少し緩やかな社会であっていいのかなと感じるのではないでしょうか。

小さな出来事に過敏になって、全体を生きづらくしているのが今の日本社会です。

社会の防衛機制は、過剰になっていくと、決まりごとを次々に生み出していき、生きづらい世の中を作り出していってしまう。

 

ルールに縛られないこと

そのためには、一つの小さな事故や失敗をことさら全体のことと受け取らないようにしなければいけないと思います。

個人の権利同様、個人の問題として帰結するべきものがあってもいいのだと思います。

実際のところ、多くの人々が、身の安全を考え、決まりを守り、節度を保ちながら、遊具を使用しているし、学校の校庭も利用しています。

管理上の大きな過失がある場合を除けば、事故や事件が起きたとしても、それは大きな池に一滴の水を滴下するようなもので、体制に影響はないはず。

ほんのごく一部のことで、新たなルールを次々に加えていったら、この先どんな社会になっていくのかと想像すると恐ろしくもなります。

そんな社会に、外国人1000万人を招へいする観光立国などと、とても声を大にして言えたものではありません。

 

ルールでがんじがらめにする思考は、民主主義とはまた違ったイデオロギーです。

クライエント様にも、社会のルールを自らの内に持ち込まず、宇宙の中に存在する唯一の自分という観点で、生き方の再構築をすることをお勧めしています。

決して、ルールに縛られる感覚を持つ必要はありません。

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